デッサンは重要か
先日の出張では「石膏デッサン 初級」という講座を行ってきました。対象はこれから美術を勉強しようと高校生。目の輝きが違います!
…とは言ってもはじめての石膏デッサンで上手に描けるはずもなく、描けないからといって嫌いになって欲しくもない。さてさてどうしましょう!?難題につきあたりました。
まず最初に宣言しておきます。私のレベルは上の下くらいです。たぶん。本職の画家やイラストレーターさんにはとても敵う気がしません。
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「美術の勉強を本気ではじめる=石膏デッサン」というイメージが強くあると思うのですが、(私が美術を勉強し始めた時のイメージです)何故でしょうか。かれこれ、アカデミックな場所でデッサンなど、美術やデザインを教えるようになって10年以上になりますが、最近になってやっと自分の言葉で話すことができるようになったので、少し書いてみようと思います。
「石膏デッサン」そのものが大切なわけではない
見出しの通りなのですが、「石膏デッサン」をする”行為”が大切なわけではなく、「モノをよく見る」訓練に適しているから。というのが正しいと考えています。もちろん、※1静物や※2人物など様々なデッサン対象はあります。そして重要です。しかしながら、その中でも石膏が美術教育において重要視されているのかといえば理由は簡単。
- 優れた彫刻家による立体物であること
- 石膏(白)のみで作られていること
です。(人体の構造もさることながら生命感や動き、重心などが表現されており、また、余計な色情報がないため、純粋に形の凹凸のみに注目することができる点。)
※静物デッサンの持つ重要性>モノの質感
※人物デッサンの持つ重要性>動きや流れ
デッサンの意味
では、デッサンが上手くなると何がよいのでしょうか。
それは、自分の意図しない部分で、ファーストインプレッションを悪くしないことに他ありません。
上手いと位置づけられる方々の作品に感じるのは、自分の好みに合っているか、いないかであって、下手という感想は持たないはずです。逆に、下手だな。と思ってしまう作品は、その人の持つ作品の魅力より先に、未熟な点が先に目についてしまいます。狙いとは別の部分が目立ってしまう。と言い換えてもいいかもしれません。
デッサンにはじまりデッサンに終わる?
美術やデザインをやっているとこんな言葉に出会うことがあります。
この心境にリアルに至るにはある程度の経験が必要ですし、言葉で理解するのと体で理解するのでは雲泥の差があることを承知であえて書きますが、
画面に対してちょうどいい構図は設計計画(エスキース)であり、完成までのプロセスは制作物へのアプローチ。画面内の見せ所は制作物の顔。二次元(紙)に三次元のように描くことは形状の回り込みの意識に繋がります。応用して時間軸の中でデッサンを描こうと思えば、映像制作においても同様のことが言えることに気がつきます。
もちろん、優秀なアーティストであればあるほど、このプロセスの次元は高くなります。
【結論】デッサンは重要か
デッサンをするという”行為”が大切なのではなく、「どのように見えているか」という観察する力が一番重要と考えています。
しかしながら、「どのように見えているか」という観察する力は、デッサンを繰り返す行為なしでは掴み得ない力だとも考えています。
つまり、「デッサンにはじまりデッサンに終わる。」が結論になってしまいますかね^^;
閑話休題
結局、はじめて石膏デッサンに触れる高校生に対しては、上記のような内容をものすごーーーーーーーーーく優しく説明し、まずは鉛筆に慣れるところからはじめようね。とお茶を濁したのでした。
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最近、ホント手で描くという仕事をしていなくて、見えているものに対してのアウトプットがついていかないことがちょくちょく。せっかくブログも立ち上げたんですし、イラストでも描いてみようかなぁ(願望)